朝の光が、和紙の障子を通して柔らかく部屋に差し込んでいる。鳥たちの陽気なさえずりが、その静寂に彩りを添えていた。広志は、淹れたてのコーヒーの香りを深く吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。五十五歳での早期退職。長年勤め上げたIT企業での激務の日々が嘘のように、今は穏やかな時間が流れている。しかし、その静けさの中には、まだ馴染めない手持ち無沙汰と、漠然とした未来への不安が潜んでいた。 「あなた、おはよう」 隣のアトリエから、絵筆を片手に顔を出したのは妻の玲だった。彼女は三十歳、中国から日本へ渡り、美術大学で日本画を学んだ芸術家の卵だ。その瞳は常に創作への情熱で輝いているが、時折、異国での生活の心細さや、まだ不安定な芸術家としての道への葛藤が影を落とすこともあった。 「おはよう、玲。今日も早いね」 「うん。新しい構図が浮かんできて。早く描きたくて」 玲はそう言うと、再びアトリエへと戻っていく。その背中を見送りながら、広志は思う。彼女の才能は確かだ。いくつかの公募展で入賞も果たしている。だが、それだけではまだ生活は成り立たない。自分が退職したことで、経済的な不安が玲の肩に重くのしかかっているのではないか。そんな考えが頭をよぎるたび、広志の胸は小さく痛んだ。 午後は、広志の趣味の時間だ。膨大なレコードコレクションが収められた書斎で、彼は一枚一枚丁寧にレコードを磨き始めた。かつて仕事で触れたAI技術の進化は目覚ましく、今でもその動向には強い関心を寄せているが、これからの人生はもっとアナログなものに囲まれていたい。そんな思いが、彼をレコードへと向かわせるのかもしれない。 ふと、手に取った一枚の古いジャズレコード。ジャケットの裏に、見慣れない小さなインクのシミのようなものがあることに気づいた。よく見ると、それは単なるシミではなく、何かの記号のようにも見える。そして、その記号の隣には、掠れた中国語の文字が一言だけ記されていた。広志は中国語を少し解するが、その文字が示す意味はすぐには分からなかった。まるで、忘れ去られた過去からの囁きのように、その小さな記号と文字は、広志の心の隅に静かな波紋を広げ始めた。そして、その時、リビングの方からインコの一羽が、普段とは違う、どこか意味ありげな鳴き声を上げたのだった。